太陽を愛したひと について
ネタバレと感想、原作「太陽の仲間たちよ」についても紹介します!

⇒無料で「太陽を愛したひと」の動画を観るならコチラ♪
※公式サイトなので安心です




太陽を愛したひと~1964 あの日のパラリンピック~ とは?



原作 :漫画「太陽の仲間たちよ」
放送局:NHK
放送日:2018年8月22日
主演 :向井理


以下は公式サイトから引用の紹介文です。

“社会の常識”と戦い、東京パラリンピックを成功に導いた伝説の医師の感動の物語。

主人公を向井 理、その妻を上戸 彩でドラマ化!

1960年、整形外科医の中村 裕(なかむら・ゆたか)は研修先のイギリスで、スポーツを取り入れた障害者医療を学んだ。

その時に出会った言葉が、その後の彼の人生の原動力になる。

「失ったものを数えるな。残っているものを最大限に生かせ」

帰国した中村は、障害者スポーツを何とか広めようとするが……

日本はリハビリという言葉すらなかった時代、「見世物みせものにしないでほしい」と抵抗にあう。

しかし、ある少年との出会いをきっかけに、車いすバスケットボールを少しずつ普及させていった。

そんな彼に驚きのミッションが!

第2回のパラリンピックとなる東京パラリンピックを実現させよ、というのだ。再び彼の前に立ちはだかる社会の常識という壁。

障害者の家族からも反対の声が。しかし、家族や仲間の支えで、次々と突破していく。

1964年の東京パラリンピックを成功に導き、その後は、障害者自立のための施設を設立するなど、障害者の社会復帰に一生を捧げた伝説の医師、中村 裕。

その波乱の人生を描いた感動の物語である──。


⇒無料で「太陽を愛したひと」の動画を観るならコチラ♪
※公式サイトなので安心です

キャストは?


主要登場人物を演じるキャストを紹介します。

向井理さん

#mukaiosamu #osamumukai #向井理 #japanese #actor #model

Osamu Mukai | 向井理さん(@osamu_mukai)がシェアした投稿 –


中村裕 役です。


以下は公式サイトの役の説明です。

国立別府病院の整形外科医。

研修先のイギリスで、スポーツをすることが障害者の心のリハビリとなり、社会復帰につながることを学ぶ。

しかし日本は障害者が外出することさえ難しい時代。

それでも多くの困難を乗り越え、1964年の東京パラリンピック開催に尽力。

障害者の自立に情熱を注ぐ。



上戸彩さん



中村廣子 役です。


以下は公式サイトの役の説明です。

中村の妻でいちばんの理解者。

3人の子供を育てながら、パラリンピック開催に奔走する夫を陰で支え続けた。

中村が周囲の反対を受け、苦しみに押しつぶされそうになったとき、太陽のような笑顔と言葉で包み込んだ。

この物語は彼女の目線で語られていく。



志尊淳さん

#志尊淳 #志尊淳ファンクラブ #ボーリング#かっこいい #かわいい

志尊淳ファンクラブさん(@shison.jun)がシェアした投稿 –



土山アキラ 役です。


以下は公式サイトの役の説明です。

部活中の事故で車いす生活を余儀なくされる。

絶望の中、中村から車いすバスケを薦められるが、当時の日本では常識はずれなことであった。

しかし中村の強引なまでの誘いに心が動き始めることに。

中村との出会いは彼の大きな夢へつながっていく。



安藤玉恵さん



村上久子 役です。


以下は公式サイトの役の説明です。

夫と2人の娘と幸せな生活を送っていたが、事故で背骨を損傷し、車いす生活となる。

ある日中村からパラリンピックに出場するよう進められるが、自分の人生は事故にあった時に終わったと心を閉ざしてしまう。



飯豊まりえ さん



岸本茜 役です。


以下は公式サイトの役の説明です。

障害者が自立して生きていくための就労施設「太陽の家」の事務員。

苦しい経営状態の中でも、中村の熱い思いに応えようとする入所者たちを励まし続ける。

そんな彼女に密かに思いを寄せる一人の青年が…



山口馬木也さん

🎂🎈🌈✨🎀 * セーラパパ、#山口馬木也 さん🧔🏻 本当に、大変お世話になりました! * 大袈裟ではなく、この方がいなければ、 私は何もできないまま、初日を迎えていたと思います👩🏻‍🏫 役者としても、人としても、大切なことを たくさん教えてくださいました😢 思いやりの塊のような方で、 感謝しても感謝しきれません。 容姿はさることながら、中身も、仕事に対する姿勢も、 周りへの気遣いも、全てがカッコよくて、、、 尊敬しかありません。 またご一緒できるように、精進いたします! #musical #小公女セーラ #セーラパパはみんなのパパでした #🧔🏻#❤️ #尊敬する人 #本当にありがとうございました 🙏🏻

木南 清香さん(@kinami_sayaka)がシェアした投稿 –



土山正之 役です。


以下は公式サイトの役の説明です。

アキラの父親。

障害を負った息子を保護することが親としての役目だと信じ、スポーツをリハビリに取り入れるという、当時としては常識はずれな中村裕の試みに対して怒りをぶつける。



尾上松也さん



畑田和男 役です。


以下は公式サイトの役の説明です。

国立別府病院の医師で、中村の後輩。

まわりを巻き込んで突き進む中村の行動に頭を抱えるが、良き理解者で相談相手でもある。



田山涼成さん

たーさん🎵 ゴチの時からお世話になっています😊 癒し系✨ #ラストコップ #田山涼成 さん

佐々木希さん(@nozomisasaki_official)がシェアした投稿 –



立石一真 役です。


以下は公式サイトの役の説明です。

中村の熱意を理解してくれた電機会社の社長。

障害者の社会復帰の先駆けとなる共同出資会社を中村と共に設立することに。



松重豊さん



天児民和 役です。


以下は公式サイトの役の説明です。

九州大学医学部名誉教授。

中村のリハビリテーションへの道を開いた恩師であり、中村に絶大な影響を与えたひとり。



岸惠子さん



中村廣子 役です。


以下は公式サイトの役の説明です。

亡くなった夫を回想する、現在の中村裕の妻。

障害者の自立のため社会の常識と立ち向かう夫を、明るく支え続けた。


⇒無料で「太陽を愛したひと」の動画を観るならコチラ♪
※公式サイトなので安心です

原作の漫画「太陽の仲間たちよ」とは?



出版社:講談社
発売日:1994年06月14日
作者 :三枝義浩

車椅子でのスポーツ、障害者のための職場づくり――。

人生のすべてを、障害をもつ人々の社会進出に捧(ささ)げた、ある医師の挑戦を描く表題作。

あわせて、意識障害患者の回復に尽力する看護チームを描いた「きみの思いを声にして!~札幌麻生脳神経外科看護チームの挑戦~」を同時収録。

『週刊少年マガジン』誌上で大反響を集めた、感動いっぱいの社会派ドキュメント・コミック!!




漫画の内容は?


漫画のタイトルは「太陽の仲間たちよ」ですが、中身は短編が二つ収録されています。


全200ページで、前半の100Pは
・「きみの思いを声にして!」
で、後半の100Pが
「太陽の仲間たちよ」
です。


「きみの思いを声にして!」は「太陽の仲間たちよ」に負けないくらいインパクトのある話なので、是非とも読んでみてください!


⇒無料で原作「太陽の仲間たちよ」を読むならコチラ♪
※「太陽の仲間たちよ」で検索です


主人公「中村裕」とは?


ドラマでは向井理さんが演じます。


日本の医者の在り方に疑問を感じて、アメリカで最新の医療を学び日本に持ち込みます。


使命感に燃える熱い男で、自己犠牲精神の塊のような人です。


あまりにも自己犠牲精神が強かったため、体を酷使して57歳という若さで亡くなっています。


その辺りは漫画で丁寧に描かれています。


以下はwikiの内容です。

身体障害者のスポーツ振興をはかった。

日本パラリンピックの父と呼ばれる。

1960年当時、日本では身障者は「ベッドで寝て過ごすことが一番」といわれていた時代、英国では身障者が驚異的な割合で社会復帰をしていた。

「何か特別な手術などがおこなわれているのでは」と調査のため、九州大学医学部の天児民和教授により、英国のストークマンデビル病院へ送られた。

しかし、手術など治療方法は日本と全く同じだった。

そこでは障害者がリハビリテーションの一環としてスポーツを行い、さらには社会全体で受け入るシステムが存在したことに強い衝撃を受けた。

帰国後、すぐに障害者スポーツの普及を目的とし、第1回大分県身体障害者体育大会を開催。

「障害者を見世物にするな」「あなた、それでも医者ですか」など多くの批判を受けた。

地方の活動ではなく国際大会を開催し、ボトムアップではなくトップダウンでの普及の必要を痛感。

1964年東京パラリンピック開催に奔走し、日本人選手団団長を務めた。

大会は成功したように見えたが、日本と西欧諸国の障害者の差を見せつけられた大会だった。

日本の参加者は施設や病院暮らしの「患者」、それに対して西欧諸国の「アスリート」では試合になるはずもなかった。

それ以上にショックだったのは、大会期間中、西欧諸国の参加者は、自分でタクシーを呼び銀座へショッピングに出かけるなど一人の自立した人間として生き生きとした姿だった。

日本人参加者は閉会式のとき中村に「働く場所をつくってほしい」と懇願した。

1975年には、障害者自身へのスポーツのプロモーションと障害者の能力を一般の方に見てもらうことを目的とし、また、誰でも気軽に「やしの木でも開催できる大会」を理念に第1回極東・南太平洋身体障害者スポーツ大会(フェスピック大会)を開催した。

このフェスピックは現在のアジアパラへと継承し、継続されている。

1981年の第1回大分国際車いすマラソン大会を成功に導いた。

当初、別府・大分毎日マラソンへ車いす使用者への参加を求めたが、当時の陸連より「マラソンは2本の足で走るもの」と受け入れられなかったことを受け、開催したものである。

中村は「不本意な開催」と晩年まで語っていた。

日本に初めて車いすバスケットボールを紹介した。

1965年、「保護より働く機会を」をモットーに「太陽の家」を設立、保護にたよる日本の福祉を変えようとした。

また社会に対しては「世に心身障害者はあっても仕事の障害はありえない。

太陽の家の社員は、被護者ではなく労働者であり、後援者は投資者である」と啓蒙。

オムロン・ソニー・ホンダ・三菱商事・デンソー・富士通エフサス等の企業と共同出資会社をつくり、多くの重度障害者を雇用した。




太陽の家 とは?


中村裕さんが、障害者が働ける場所を確保するために作った寮付きの工場です。


工場を作る流れも、漫画で非常に丁寧に上手く描かれています。


立ち上げ当初はどうしても生産性が上がらずにかなり苦労したようです。


ですが、中村裕さんのアイデアでベルトコンベアを導入して生産性が上がり、健常者たちと対等に戦える工場に成長しています。


手が不自由な人は足を、足が不自由な人は手を、手足の不自由な人は肘を使って作業をしたのだそうです。


ベルトコンベアでの仕事は単純作業ですが、モチベーションが健常者より高いため不良品率はかなり少ないのが強みになっています。


漫画の“初ボーナス”支給のシーンは感動して涙が出ました。


以下はwikiの内容です。

社会福祉法人太陽の家(たいようのいえ)は、大分県別府市亀川に本部を置く社会福祉法人である。

障害者の自立のための施設太陽の家(大分県別府市亀川)、愛知太陽の家(愛知県蒲郡市)、京都太陽の家(京都府京都市南区)等を運営する。

「保護より機会を」、「世に身心障害者はあっても仕事に障害はあり得ない」という理念のもと、1965年に医師中村裕によって設立された。

作家の水上勉や評論家の秋山ちえ子の支援もあって、ソニーの井深大、ホンダの本田宗一郎、オムロンの立石一真らの実業家の理解を得、これらの企業と共同出資した会社を設立して障害者を雇用し、通常の工場と同様の製品の生産を行っている。

太陽の家という名も、水上勉が命名したものである。

また、障害者が施設内で閉じた生活を送るのではなく、地域と積極的に関わることを目指している。

別府市の太陽の家内にあるスーパーマーケットや銀行の支店等の施設は地域の住民も利用可能であり、交流の場にもなっている。




原作の漫画のネタバレ


収録されている短編
・「きみの思いを声にして!」
・「太陽の仲間たちよ」
両方の詳しいネタバレを紹介します。
※ドラマの原作は「太陽の仲間たちよ」です


「きみの思いを声にして!」のネタバレ


1968年
紙野は看護師をしていた。


その病院は脳神経外科で、意識を失った重度の患者が多かった。


主な仕事は生活の補助で、患者の生命を維持することだった。


ある日
患者の妻が
“もう疲れた…”
とうなだれていた。


主人が交通事故で寝たきりの植物状態となり、入院費がかさむ一方なのだという。


妻は
“これ以上頑張ったら、この先にいいことでもあるの?これじゃ本当に助けてもらったことにはならない”
と嘆いていた。


紙野はその言葉で衝撃を受ける。


患者の生命を維持するだけでも意義を感じていたが、確かに冷静になって考えると違和感に気づくようになる。


“生活の援助だけでなく、意識の回復”
もできないかと疑問に思い、看護師の研究会に参加してみると自分と同じ考えを持っている人は多かった。


そんな時、新しい病院の開設の話があり、紙野は看護師長として迎え入れられる。


研究会で知り合った看護師仲間に声をかけて
“自分たちの力が試される時が来た”
と仕事に取り組む。


病院開設してまもなく、プール事故に遭った鉄郎という少年が病院に運び込まれる。


鉄郎は命に別状はなかったが、病院にくるまで時間がかかりすぎていた。


脳の大半の機能が障害を受けてしまい、植物状態になってしまう。


紙野たちは鉄郎の意識回復へ向けて看護を始める。





意識障害になる前と同じ生活をさせるため、朝の決まった時間にラジオを聞かせることから始める。


マヒして固まってしまった手足を毎日マッサージもしていた。


看護師たちが話しかけたりして、大脳に様々な刺激を送り込む。


医師は怪訝な表情をしていたが、看護師たちの熱意に圧倒されて見守ることにする。





3か月が経過していたが、鉄郎に何の変化もなかった。


鉄郎が唾液を飲み込んでいるため、食事の経口摂取を試すことにする。


カテーテルを取り外すのは苦痛を伴うため、カテーテルをつけたまま食事ができるか看護師たちは実験をする。


看護師たちは涙と流しながらカテーテルをつけたまま食事をしてみて、できることを確認する。


鉄郎が好きだったというプリンを試しに口に運んでみると、鉄郎はゆっくりと飲み込む。


“鉄郎の意識は残っている”
と看護師たちの表情は明るくなる。


しかし、それから3か月経過するが、それ以上の変化はなかった。


医師も
“口から食事をしたのはただの条件反射だ”
といっていた。


それでも紙野は諦めなかった。


鉄郎の母から鉄郎は風呂が好きだったと聞き、看護師仲間で協力しながら鉄郎を風呂に入れてみる。


風呂場には生命維持装置がないため、最新の注意を払っていた。


看護師たちは汗だくになりながら鉄郎の入浴をする。


3回目の入浴で、鉄郎の手が自発的にゆっくりと伸びる。


また、鉄郎の表情が穏やかになっていた。


看護師たちは鉄郎の意識回復に確かな手ごたえを感じる。






看護師たちは熱心だったが、鉄郎の母親は
“今のこの子は母親の私を認識できているのか?”
と不安になっていた。


紙野は母親を励ましながら鉄郎の看護を続ける。


鉄郎はクラスで慕われていたため、お見舞いの千羽鶴や手紙が届く。


紙野は友達に面会してみることにする。


仲のいい友人二人が病室に訪れる。


紙野は鉄郎の表情が微妙に変化したのに気づく。


友人は呼びかけても反応しない鉄郎を見て悲しそうにしていた。


友人が不安で泣き出すと、鉄郎も泣き出す。


看護師たちは
“友達に会って泣いた、まだしゃべれないけどこのままいけば会話もできるようになる”
と喜ぶ。


友人たちも鉄郎が戻ってくるのを心待ちにしていた。






しかし、数か月が経過しても鉄郎が声を出す気配はなかった。


やがて、若い看護師たちに疲れの色が出始める。


ただでさえ看護師の仕事は激務で精神的負担が大きかった。


紙野は本や資料を読み漁る。


“これまで自分たちは大脳に働きかけていた、それ以外の部分に働きかけてみたら…”
と思い、アプローチ方法を変えてみることにする。


紙野は会議で
“軽い運動”
を提案する。


運動をつかさどるのは大脳ではなく、脳幹という場所だった。


看護師たちは激務で疲れ切っていたが
“鉄郎の声を聞きたい”
とやってみることにする。


まずは四つん這いになり手を動かすことから始める。


最初は鉄郎は嫌がって泣き出すが、看護師たちの熱意は鉄郎に伝わったようだった。


5か月後、鉄郎は一人で立つことに成功する。


ある日
いつも通り軽い運動を使用と看護師が病室に行くと、鉄郎が
“あり…がとう”
と言葉を発する。


看護師たちは慌てて鉄郎の母親を呼ぶ。


鉄郎は母親を見ると
“おか…あさん”
という。


母親も看護師たちもみんな大喜びだった。





2年後
鉄郎は学校に復帰できるまで回復する。


まだ上手くしゃべることができないため、不安はあった。


しかし、友人たちは鉄郎の姿を見ると歓迎する。


紙野は
“あきらめなくてよかった”
と思い、看護師仲間に感謝する。





まだ解決しなくてはいけない問題は沢山あった。


“看護”
という仕事は軽視されており、正当な経済評価を受けていない。


この医療制度の元では、国民はよい看護を受けるのは困難だった。


紙野が勤務していた病院は看護師の数が多く、患者一人一人に看護が行き届いており患者にとって恵まれた病院だった。


全国的には看護師の数は足りていない。


人間はいつ病気や事故でけがをするかはわからない。


その時に満足な看護が受けられるず、冷たい病室の中で一人で孤独や不安に襲われてからでは遅いのだという。


⇒無料で原作「太陽の仲間たちよ」を読むならコチラ♪
※「太陽の仲間たちよ」で検索です


「太陽の仲間たちよ」のネタバレ


1995年
中村裕は病院で整形外科科長をしていた。


“整形外科とはケガで傷ついた体を正常に治すこと”
という考えが日本では常識で、中村もそう思っていた。


しかし、体の機能の一部を失って退院していく人の塞ぎこんだ様子を何度も目の当たりにして、その考えに疑問を抱くようになる。


1960年
中村はイギリスに研修に行くと、脊髄損傷した患者の85%は6か月で社会復帰するということを知り驚愕する。


手術の技術を注意深く観察するが、技術だけならむしろ日本の方が上だった。


“何が違うのか…?”
を考えながら病院内を歩いていると、体育館からの物音に気づく。


車椅子に乗った障害者たちが、生き生きとバウケを楽しんでいた。


グッドマン博士は中村に
“君が本当に見たかったのはこれじゃないのかい?”
といって
“体のリハビリだけでなく、心のリハビリ”
が重要だと伝える。


中村は残りの研修期間を
“心のリハビリ”
について学ぶことに専念する。


日本に帰り
“障害者にスポーツをさせたい”
と会議で提案するが、医師のほとんどが反対する。






中村は直接患者に話すことにする。


当時11歳の誠という少年が患者にいた。


彼はラグビーの練習中に首を損傷して下半身がマヒしていた。


誠の父は
“スポーツで障害者になった息子にスポーツを勧めるなんて”
と激怒する。


誠は塞ぎこんで沈黙していた。


中村は
“やはり日本では無理なのか…”
と諦めかけるが、根気よく誠を説得する。


誠は
“やってみる”
というので、中村と一緒に二人の挑戦が始まる。


当時の車椅子は木製で、スポーツ用のモノはなく動き回るのに適していなかった。


誠はタイヤにこすれて擦り傷を作りつつも、生き生きと車椅子バスケに打ち込んでいた。


誠の退院の日を迎えると、中村は
“家に戻ったらスポーツをやめてしまうかも…”
と心配しつつも送り出す。





数日後
誠の父から
“誠がいなくなった”
と電話がくる。


中村は慌てて近所を探し出すが見つからなかった。


うなだれて病院に戻ると、誠が泥だらけで車椅子でやってくる。


中村は表に出て誠を迎えると、誠は転んでしまう。


中村は駆け寄るが、誠は自力で車椅子に乗りなおして見せる。


誠は
“自分一人で座りなおせるまでになった、誰の力も借りずに一人で来れた”
とたくましくなった自分を見せたかったのだという。


その様子を見ていた誠の父は、中村にこれまでの非礼を詫びて誠のスポーツをサポートするという。


誠の頑張りは他の患者にも伝染していき、病院にはスポーツをやる患者が増えていた。






中村は大分県で日本初の障害者スポーツ大会を開く。


しかし、参加者も観衆も少なく、報道もされなかった。


“どうすれば障害者スポーツを広げることができるか?”
が中村たちの課題となる。


誠の提案で、外国の国際大会に参加することになる。


中村が手配をして、誠たちには練習に専念せいてもらうことになる。


当時は海外へ行くのに莫大な費用が掛かっていた。


障害者たちは収入がなかったため、中村が何とかするしかなかった。


中村は銀行に掛け合うが相手にされない。


仕方なく自分の愛車を売って二人分の旅費を捻出する。


誠たちは中村の思いにこたえるため練習に専念する。


伊藤と吉田の二名が選手として選ばれて大会に出場することになる。


中々いい成績は出せなかったが、ラストの水泳で中村は3位に入賞する。


このニュースは世界にも日本でも大きく報道される。





1964年
障害者スポーツは東京パラリンピックが開催されるまでに発展していた。


中村は
“自分の仕事はまだまだこれからだ。彼らが社会に出て仕事に就くことによってはじめて自立したといえる”
と思っていた。






中村は外国人選手と日本人選手を見比べることでその違いに気づく。


外国人選手たちは練習が終わると、食事やショッピングを楽しんでいた。


それに対して、日本人選手たちは仕事がないため、支えてくれる家族に負担をかけてまで食事や買い物ができずにいた。


当時の日本には障害者が働ける職場はほぼなかった。


中村は
“小さくてもいいから工場を作ろう”
と動き出す。


医者としての仕事をしつつ、工場の仕事を取ってくる営業として奔走していた。


ようやく仕事が取れて、病院の近くの土地に工場を始める状況が整っていた。


この計画を知った全国の障害者からは、入居希望が殺到していた。


中村は
“こんなに働きたい障害者が全国にいるんだ”
と自分のしていることに需要があるのだと認識する。


1965年
「太陽の家」
と名付けられた工場がスタートする。


最初の入居者は15名で寮も完備していた。


従業員たちは仕事熱心だが、どうしても健常者と比べると生産性は悪かった。


従業員たちは粗悪な環境に文句ひとつ言わないが、経営は赤字だった。


太陽の家の入居者は100名を超えていた。


仕事を回してくれる企業も減っていっていた。


中村は何としても成功しなくてはならなかった。


“失敗の前例”
ができてしまうと、この先も障害者の働く道が閉ざされてしまう。


従業員たちは効率の悪さを補うために寝る間を惜しんで仕事をしていたが、そのやり方は長くは続かないのは明らかだった。


中村は
“どうすれば能率を上げることができるのか?”
の問題を考えていた。


ある日
エスカレーターに乗っているときに
“ここに製品をのせたら…”
と思い、ベルトコンベアを工場に採用することを思いつく。


作業効率が悪かったのは、車椅子で動き回る必要があったからだった。


ベルトコンベア導入には莫大な費用が必要なため、中村は営業活動を行う。


ほとんどの会社に断られるが
“立石電機株式会社”
※現在のオムロン
の立石社長が中村の熱意にこたえてくれる。


ベルトコンベアの導入で工場の生産性はみるみる上がっていった。


従業員たちの仕事は丁寧で、不良率は格段に少なかった。


従業員たちは
“自分たちは健常者にも負けていない”
と自信を持つことができるようになる。


工場の経営はついに黒字となり、中村はボーナスを支給する。


太陽の家設立から7年が経過して、ついに大きな利益を生み出すようになっていた。





その後も中村は精力的に動き回り、協力してくれる会社は増えていく。


太陽の家は順調に業績を上げていく。


町に車椅子利用者の数が増えたため、町は車椅子を使う人たちが暮らしやすいように改修されていく。


中村は日本の障害者だけでなく、アジアの国々に車椅子を寄付したりしていた。


海外で障害者スポーツについて講演したりして、人の何倍ものスピードで人生を生きていた。


そんな無理がたたってしまい、重度の肝臓の病気で入院してしまう。


病床に付している中村は
“行かなければならない、支度をしてくれ…”
と、出席するハズだったイギリスで開かれる障害者スポーツ大会のことを気にかけていた。


1984年7月23日
中村は57歳の若さで、最後まで障害者のことを考えながら息を引き取る。


⇒無料で原作「太陽の仲間たちよ」を読むならコチラ♪
※「太陽の仲間たちよ」で検索です


原作の漫画の感想


紙野さんも中村さんも、日本の偉人伝にのりそうなくらいすごい功績ですね。


とにかくすごいのが、自己犠牲の精神でした。


身内に障害者がいて、それを解決するために情熱を燃やすのならわかります。


ですが、二人ともそう言ったことではないようです。


“赤の他人のためにここまでできるのか?”
という驚きがありました。


普通の人だったら、余裕のある時に気まぐれにコンビニで募金をする程度だと思います。


二人のエネルギー源は何なのか?と興味深いです。





実話が元ネタの漫画ですが、どちらの短編もドラマチックで“脚色してるんじゃないの?”と思いほどでした。


ですが、どちらも作者の三枝義浩先生が実際に取材に行って詳しく話を聞いて描いたそうです。


三枝義浩先生の画風は、こういったドキュメンタリーによくマッチしていますね。


劇画すぎるとドキュメンタリー感はでないし、コミカルに描いていい内容でもありません。


三枝義浩先生にはいろんな業界のドキュメンタリーを描いて欲しいです。


この漫画は是非とも小学校や中学校の図書室に置いて欲しいです。






読んでいて印象的だったのは、中村裕さんの行動力でした。


外科医をやりながら、実業家のようなことをして成功させています。


工場仕事は素人のハズなのにベルトコンベアを使うというアイデアを出して、営業活動をして見事に協力者をゲットしています。


・外科医
・実業家
どちらかだけでも大変だと思うのに、両方こなして成功できるというハイスペックな能力と情熱が本当に凄いです。


プライドが高そうな医師という職業についているのに、頭を下げる営業活動ができるのには驚きです。


いい意味で
“目的のためには手段を選ばない”
人なのではないかと思います。


この中村裕さんという人を、ドラマで向井理さんがどのように演じるのか楽しみです!


⇒無料で原作「太陽の仲間たちよ」を読むならコチラ♪
※「太陽の仲間たちよ」で検索です


太陽を愛したひと~1964 あの日のパラリンピック~ のネタバレ

※放送後追記します。

⇒無料で「太陽を愛したひと」の動画を観るならコチラ♪
※公式サイトなので安心です

太陽を愛したひと~1964 あの日のパラリンピック~ の感想

※放送後追記します。

⇒無料で「太陽を愛したひと」の動画を観るならコチラ♪
※公式サイトなので安心です